引用元: https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/1650660833/
4月17日に行なわれた日本ハム戦、史上初の2試合連続完全試合を目前にした佐々木朗希(ロッテ)は8回を投げ切って降板した。試合後に井口資仁監督は「もし(味方が)点を取っていても8回で代わってました。7回が終わった時点で朗希がへばりつつあったので」と、マウンドから下ろした理由を説明。
「郎希が1年間ローテーションでしっかり回ることが大事」と強調した。あくまで記録ではなく佐々木の健康を優先したのである。井口監督の決断には賛否両論が起きた。筆者は降板賛成派だが、“否”の意見も理解できる。たしかに2試合連続完全試合を目の当たりにするチャンスなど、おそらく今後100年間でも一度あるかないかだ。
だが、選手生命よりも記録を優先した結果、決定的に壊れてしまった投手を1人知っている。伊藤智仁(ヤクルト)だ。
1992年バルセロナ五輪の日本代表として活躍した伊藤は、同年のドラフト1位でヤクルトに入団。当時の球団首脳陣は松井秀喜と迷った末に伊藤を選び、23歳の右腕も1年目からその期待に応えた。開幕当初こそ二軍にいたが、4月中に一軍へ昇格すると、150キロを超えるストレートと「消える魔球」とも称された高速スライダーを武器に好投を続けたのだ。
そして、石川県立野球場で行なわれた6月9日の巨人戦で、伊藤は歴史的なピッチングを見せる。5回までの15アウトのうち、12個が奪三振。8回までに15三振を奪い、セ・リーグ最多記録にリーチをかけた。プロ野球史上最多17奪三振(当時)の更新も可能とあって、野村克也監督はためらいなく伊藤を9回裏のマウンドへ送り出した。この時点でスコアは0対0だった。
伊藤は1死から8番の吉原孝介から三振を奪い、1試合16奪三振のセ・リーグタイ記録を樹立。だが、直後に運命は暗転する。途中から9番に入っていた篠塚和典への初球が高めに抜けた。2度の首位打者に輝いた篠塚はこの失投を見逃さず、打球は巨人ファンがひしめくライトスタンドに飛び込むサヨナラ本塁打となったのだ。
この時、グラブを叩きつけて悔しさを露わにした伊藤は、その1か月後に故障を余儀なくされた。7月4日の同カードに先発した後に右ヒジの不調を訴え、この年はそれ以降、一度も登板できなかった。
当時はまだ「先発投手は完投」という風潮が残っていた時代で、93年の伊藤は12先発のうち11試合で100球以上投げていた。「あの試合」だけで伊藤が壊れたとは必ずしも言えないが、記録達成のための続投で選手生命が、少なからずむしばまれたと言える。
野村は、伊藤の酷使をのちのちまで悔やんでいたという。2018年に出演したテレビ番組で本人と再会した際には、
「俺以外の監督の下なら、もっと凄い記録を絶対に残していたと思う。俺が邪魔したみたいだ。申し訳ない」と謝罪していた。これに対して伊藤は「(怪我は)自分の責任だと思ってますし。そういう風に思ってほしくない」ときっぱり言い切った。「先発したら、その試合は最後まで投げるのが使命だと思っていた」とエースの責任感を口にしたように、本人にも投げたい気持ちが強くあったのだろうし、今となっては野村の決断の成否をとやかく言っても意味がない。
ただ、佐々木のように首脳陣が配慮していたら、伊藤にはまた違う野球人生があったかもしれない。
93年前半戦の快投を根拠に、「史上最高の投手」の議論に伊藤の名を挙げる人は今も存在するが、そこには「故障さえなければ」という但し書きがつく。「史上最高の投手になれなかった」という意味では、その他大勢の選手と変わらない。
その一方で、佐々木はいまだ史上最高の投手になるだけの可能性を秘めている。あれだけの快投を見せてくれた彼に、できればそうなってほしいと思っているのは私だけではないはずだ。ならば、降板と続投のどちらが正解だったのかは言うまでもないだろう。
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Source: なんJ PRIDE
記録か、選手生命か――。佐々木朗希の8回完全降板で思い出した“幻の名投手”伊藤智仁の悲劇