引用元: http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1602052628/
10/7(水) 11:05配信
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何とも言えぬ寂しそうなあの顔は、今でもハッキリと覚えている。そして18歳の少年は、確かにこう言った。
「僕、行かなきゃいけませんかね?」と。
順当に甲子園まで勝ち進み、あの明徳義塾戦も取材した。アルプススタンドから投げ込まれた無数のメガホンと、悲しそうに拾い集める部員の背中。怒号が飛び交う中、4番打者が5度目の打席でもバットを振らせてもらえなかった。1点が届かず、三塁側ベンチ前で相手の校歌を聴かされた。悲運の5番打者が、その先の人生でとてつもない重荷を背負うことになった。
異様なムードで始まった敗退のお立ち台で、松井少年は泰然と受け答えした。熱くなっていたのはむしろ記者の方であり、淡々と一塁に歩き続けた少年は、泣くわけでなく、明徳義塾の戦法をののしるわけでもなく。あの大物感こそが、惜敗を伝説にした。
それから97日後に人生が決まった。プロには行くと決めていたが、本当に行きたいところは1つだけだということは、誰でも知っていた。まねたわけではないが、同じ右投げ左打ち。幼き頃、掛布雅之の31番をプリントしたシャツを着て、野を駆け回っていた。事前の指名決定あいさつでも、阪神だけテンションが違っていた。「佐野さんが来る! 佐野さんですよ!」と担当スカウトだった佐野仙好の名を連呼し、ほおを赤らめていた。
中日、ダイエー、阪神、巨人。開封
阪神がもっとしたたかな球団なら、競争率は下げられたことだろう。むしろゴジラの恋心を知っていたくせに、決定は遅れた。天下の巨人を袖にはできない。ダイエーと中日はOBがお世話になっている。サプライズはなく、予想通りの4球団競合。中日、ダイエー、阪神、巨人の順で抽選が始まった。
中日だけが中山了球団社長、ダイエーは根本陸夫新監督、阪神が中村勝広監督で巨人が長嶋茂雄監督だった。全員が右手で封筒を引き抜いた。開封。しばし間を置き、ミスターが笑顔のサムアップ。野球界の歴史が刻まれた。
北陸新幹線開通前。ミスターは電話をかけ、甲高い声で喜びを伝えた。会見、胴上げ。華やかな儀式は滞りなく終了した。晩秋の夜。なぜか校舎の非常階段で私と松井が2人きりになっていた。両手には缶ジュースが1本ずつ。「飲みますか?」と差し出され、受け取った。そして冒頭の言葉を投げかけられたのである。
相談。のわけがない。もし「断っちゃえよ」とそそのかしたとしても、歴史は何1つ書き換えられていない。諦観。本当は同意してほしかったのか。そんなに阪神に行きたかったのか……。駆け出し記者はうろたえながら「そりゃそうでしょ」とゴニョゴニョ言うのが精いっぱいだった。
歴史を書き換えられる隙間があったとすれば、抽選だろう。4氏の誰もが「当たり」の封筒に指先を触れたことになる。中村監督は2分の1。重なっていた2通の下を選んだと知っている。このドラフトの後日談として、ご本人から聞いたからだ。
「なんで下を引いたかわかるか? オレは(ドラフト会場の)東京に新幹線で入っただろ? だから下から、下からってね」
「甲子園の浜風を止めてくれたらね」
この話を聞いたとき、松井の思いを知っていただけに切なくなった。当時の阪神は高知県安芸市で秋季キャンプを行っており、大の飛行機嫌いだった中村監督は、岡山経由で陸路上京した。だから下。それはいい。どちらを選ぼうと当たるときは当たる。外れるときは外れる。ただ、上を選べという声は聞こえなかったか。なぜなら、このときの中村監督を乗せた新幹線は、架線事故のため浜松付近で1、2時間足止めを食らっている。「下はダメ」。神託。一度きりのチャンスをスルーした瞬間、歴史は定まったのだ。
後年、すっかり巨人の中心打者に成長した松井と、甲子園で再会した。こちらの「阪神にFAで来る?」。取材。のわけがない。答えはわかっている。ただ、軽口にこう返されたのは覚えている。「甲子園の浜風を止めてくれたらね」。言うまでもなく左の強打者には敵の風。残るべくして残った「当たり」を師はつかみ、少年は運命を受け入れ弟子となった。のちにそろって国民栄誉賞。もし、非常階段での言葉が相談だったとしても、今なら迷わず「行け」と背を押す。何人たりとも書き換えてはいけない歴史なのだから。
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Source: なんJ PRIDE
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