バスケ八村塁、野球を続けていれば大谷クラスを期待できた

在庫処分最大40%オフバナー 720 × 300
20190321-00010000-flash-002-2-view

引用元: http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1553124642/

1: 風吹けば名無し 2019/03/21(木) 08:30:42.28 ID:xsFbMROw0
 アスリートとしてのスタートは、富山県富山市奥田で始まった。

「富山県は何もないところですが、そういうところが好き。あそこからすべてが始まっているし、富山が恋しい……」(八村)

八村塁、野球からバスケ転向で「東京五輪の救世主」に
20190321-00010000-flash-001-2-view
小6時すでに170cmあり、中学卒業時は190cmに

もっとも、幼少期に熱中していたのは、野球だった。当時、彼が所属していた「奥田少年野球クラブ」の元監督・高嶋信義氏が当時を振り返る。

「小2で入部してきましたが、当時から体が大きく、図抜けた身体能力の持ち主として有名でした。彼はバスケも好きだったので、取り合いになった。うちに入ってくるとわかったときは、嬉しかったなあ」

 才能はすぐさま開花した。

球速があって球質も重かったので、キャッチボールでさえ、子供が手を傷めてしまう。ほとんど僕が相手をしていました。投手をやらせたけど捕手がとれない(笑)。小学生で、あの子の球を打てる子はいませんでした。

 それで捕手や一塁をやらせた。芯に当たればまずホームラン。ゴロでも打球が速く、内野手が一歩も動けない。しかも足が速すぎて、盗塁はフリーパスでした」(高嶋氏、以下同)

 小学5年生のとき、奥田小の代表として陸上大会に参加。陸上部ではないにもかかわらず、100m走を大会新記録で優勝した。

 高嶋元監督には夢があった。それは同クラブからプロ野球選手を生み出すことだった。

「塁には、その可能性がおおいにあった。小6のとき、いろんな中学の監督さんに『彼に話をしてくれ』とお願いしました。彼も熱心に話を聞いていたので、野球を続けてくれると思っていたのですが……」

 だがその願いはかなわず、奥田中学に進むと、バスケ部から熱心に誘われて入部する。
(週刊FLASH 2019年4月2日号)
3/21(木) 6:01配信 SmartFLASH
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190321-00010000-flash-peo&p=1

92: 風吹けば名無し 2019/03/21(木) 08:59:35.48 ID:qN6T6epN0
富山県、なにも無かった

3: 風吹けば名無し 2019/03/21(木) 08:31:35.64 ID:bec5Xu7Ud
まあバスケで成功したならええんちゃう

6: 風吹けば名無し 2019/03/21(木) 08:32:38.31 ID:xsFbMROw0
富山初の高校野球優勝出来たかもしれないのになぁw


続きを読む

Source: なんJ PRIDE
バスケ八村塁、野球を続けていれば大谷クラスを期待できた

初めてのペットライフ応援キャンペーン