小野伸二、高原直泰、稲本潤一らを輩出した日本代表の黄金世代www
2021年12月22日今夏には東京五輪が開かれ、森保一監督が率いた日本代表は「金メダル獲得」を明確な目標と定めた。その五輪において、日本サッカーが最大の期待を集めたのは2000年のシドニー五輪だったかもしれない。その中心となった「黄金世代」が、日本がアジアの中で最強クラスの評判を確立し、さらに世界へ打って出ていく時代のスターたちだ。
当時の日本サッカーは、1993年にJリーグが開幕して96年には28年ぶりの五輪出場(アトランタ)、98年のフランス・ワールドカップ(W杯)に初出場と、今に続く両大会への連続出場が始まった時期だった。そして、今回の森保監督の先例にもなった、A代表と五輪代表の兼任監督に就任したのがフランス人のフィリップ・トルシエ監督。エキセントリックな面はあったが、有能な若手選手を次々に抜擢した功績は大きい。その中心が、1979年生まれの黄金世代だった。
99年のワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を果たしたことで大ブレイクしたこの世代は、まずはMF小野伸二が中心のチームだった。98年に清水商業高から浦和レッズに加入し、開幕当時からレギュラーを獲得。柔らかいボールタッチに、足に吸い付くようなトラップや「センチメートル単位」と言われたパスセンスの持ち主で、多くのファンの心をつかんだ。まさに「誰が見ても上手い」選手の典型で、セットプレーを蹴るレベルで右足だけでなく左足でも正確なボールを出した。
惜しむらくは99年にシドニー五輪の予選で相手選手の悪質なタックルで大きな負傷をしてしまい、翌年の本大会には出場できなかったことだ。キャリアにも影響を与えるレベルの負傷だったが、シドニー五輪直後のアジアカップにA代表の一員として出場すると、オランダのフェイエノールトに移籍して中心選手として活躍。のちに世界レベルのストライカーになるFWロビン・ファン・ペルシ-らとプレーし、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)も勝ち獲った。現在も北海道コンサドーレ札幌で現役を続け、若手に大きな影響も与え続けている。
フットボールゾーン 12/22(水) 7:50
https://news.yahoo.co.jp/articles/d2d3d47d03139c4d395bdf68eec6dd5e9fe04b91
一方で、この世代の絶対的なストライカーとして君臨したのがFW高原直泰だった。清水東高から98年にジュビロ磐田へ加入すると、当時の日本代表でエースだった“ゴン中山”ことFW中山雅史とコンビを組んだ。スピード、パワー、テクニックを兼ね備えた日本サッカー待望のストライカーは、ワールドユースでもシドニー五輪でもゴールを量産して活躍。JリーグでもMVPと得点王をダブル受賞するなど、傑出した存在だった。
2002年の地元開催、日韓W杯にエコノミークラス症候群を発症したことで出場できなかったのは、多くのファンも残念がった。しかし、その後にドイツ移籍すると「スシ・ボンバー」というニックネームも与えられながら活躍。当時、最強のGKと目され無失点も継続していたバイエルン・ミュンヘンのドイツ代表GKオリバー・カーンからゴールを奪ったことも大いに話題になった。08年に帰国して浦和に加入して以降は苦しむことも多かったが、日本人最強ストライカーの話題では常に最有力候補に名前が挙がる。
一方で、所属の鹿島アントラーズでも黄金時代を築く大きな力を発揮したこの世代が、DF中田浩二、MF小笠原満男、MF本山雅志のトリオだろう。98年のプロ入りは前述の2人と同じだが、3年目の2000年にはJリーグ、ヤマザキナビスコ杯(当時)、天皇杯の国内三冠制覇の原動力になった。特に小笠原はリーグのチャンピオンシップ、天皇杯の双方でMVPを獲得するなど勝負強さが目立った。途中イタリア移籍もしたが、長年にわたって鹿島のトップ下に君臨し、その「イズム」をチームに浸透させた。
中田は当時から貴重な左利きで守備的なポジションを幅広くできるユーティリティープレーヤーとして長年活躍。フランスの名門マルセイユでもプレーし、日本代表でも57試合に出場するキャリアを築き上げた。本山はシドニー五輪に向かう時期が最も代表絡みの活躍が多かったかもしれないが、切れ味鋭いカットインを武器にして鹿島で長年にわたってチャンスメーカーとして君臨した。
そして、この世代の「大型ボランチ」として話題を集めたのはMF稲本潤一だった。これまでに紹介した選手はすべて高校サッカーからの出身だったが、稲本はガンバ大阪の下部組織出身で、Jユース組からトップレベルに上り詰めた先駆者とも言える。フィジカル的な強さに加えて運動量も豊富で、日韓W杯では果敢な攻撃参加でゴールするなど活躍。アーセン・ベンゲル氏が監督を務めていたイングランドの名門アーセナル移籍も勝ち獲った。その後、トルコやフランスなど欧州を渡り歩く間に日本代表としても活躍。06年ドイツW杯と10年南アフリカ大会も合わせて3大会連続出場の快挙も成し遂げている。
こうした10代のうちからスター級の活躍をした選手たちと比較すれば、少し遅れて成熟したと言えるのはMF遠藤保仁だろう。ワールドユースなどトルシエ監督の政権下でもメンバー入りしていたが、最も活躍が顕著になったのは30歳が近づいた頃からだ。中盤のプレーメーカーとして君臨し、岡田武史監督が率いた10年南アフリカW杯ではデンマーク戦で芸術的なフリーキックも決めた。
続くアルベルト・ザッケローニ監督の時代では、MF長谷部誠とのダブルボランチはチームの骨格に。すべての攻撃が遠藤から始まるというほどチームの心臓部として機能し、日本代表では通算152試合に出場。息の長い活躍で、現在もジュビロ磐田でプレーを続けている。
ほかにも多くのスターが存在し、高卒からの活躍だけでなく浦和レッズなどでプレーしたDF坪井慶介のように、大学経由でプロ入りして日本代表やクラブでのタイトル獲得に大きく貢献した選手たちもいる。2学年上までの世代には、MF中田英寿やMF中村俊輔、FW柳沢敦といったスーパースターも存在した。それでも、これだけ多くの名手たちが同じ1979年に生まれ、日本サッカーの一時代を築いたのは歴史に刻まれている。
引用元: http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1640135606
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Source: SAMURAI Footballers
小野伸二、高原直泰、稲本潤一らを輩出した日本代表の黄金世代www