日本サッカー界への提言 個人が持つべき当事者意識と覚悟
2021年12月3日世の中ではSDGsを叫び、差別のない世界をと言っているが、いまだ日本では人を差別して、ばかにして、誹謗(ひぼう)中傷を浴びせている。世界がひとつになって貧困や環境問題を取り上げ、解決していこうとしているが、我が国ではいまだにいじめやパワハラ、セクハラが続いている。
僕の友人はハーフということだけで偏見を持たれ、少しでも意見を言えば全てがクレームに取られる。大人たちは今でもそうやって自分の権威や権力を保つために標的を決めたらとことん攻撃をし続ける。ダイバーシティやSDGsがうたわれていても、多くの国民1人1人は我関せずといった感じだ。
僕がJリーガーとしてプレーをしていたとき、あるJ2クラブと練習試合をした。その際に幾度となく重ねるラフプレーをレフェリーは見逃し、そのクラブの監督も黙認していた。彼はボールのないところで肘打ちを入れたり、我々の選手の首をつかみ「サッカーできない体にしてやろうか」と言った。そして最後には選手が足首にけがを負うくらいのプレーをし、平然とその場を去った。
試合中に何度もレフェリーにこのままだとけが人が出るからちゃんとジャッジしてくださいと伝えた。それでも何もせず、結局負傷を負い交代せざるを得なくなったのはうちの選手だ。これは果たして正当なことなのだろうか?その相手選手がキャリアのあるベテランだと何でも許されるのだろうか?あの時の彼のプレーは暴言の域を超えてどう喝であり、激しいタックルの域を超えた暴行だったと思う。
日本人は相手の「地位」や「名誉」や「肩書」で全てをうやむやにする習性がある。これだけSDGsが叫ばれてる中で日本人は今でも優先順位を「肩書」に置く。その試合にはメディアも来ており、翌日の記事を見ると、その暴力プレーは「激しいプレーで仲間を鼓舞」と美談にされていた。そしてもっと驚くことに、相手監督はミーティングであれくらいやらなきゃダメだと言っていたと言う。世の中間違っていると思う。
そしてサッカー界は非常に村社会化が進んでいて、SDGsなんてうたえるものじゃない。1人1人が人生をかけて戦っているのはわかる。むしろそれは当たり前だ。そうでなくてはプロフェッショナルではない。しかし、それと暴力やどう喝はイコールにはならない。
きっと関係者は言えないだろうから、僕があえて言おう。自分の身を守ることに必死の大人が集まっている今のサッカー界に未来はない。きれい事を並べても、目の前の肩書ある選手や指導者に何も言えないようなら、そこには覚悟も本気もない。バランスをうまくとりながら、という人ほど何もしないで誰かの不祥事を待つだけだ。
本気で業界を変えるときは自分が死んでからでもいいから、その業界の明るい未来が見たいと思うはずだ。既得権益、私利私欲、自分さえ良ければいいという「逃げ切り世代」が渡すバトンがいよいよ僕ら40代の「見て見ぬふり世代」に渡されようとしている。組織のあしき習慣になじんでしまえば、そのバトンの行き先はない。気がつけば楽な方へと進み、初心を忘れて、志をお金で買われてしまうんだ。
組織のあしき習慣に魂を売れば、その瞬間に廃人と化す。そんな人たちが未来あるサッカー界を作れるわけがない。本当にこのままでいいのか。美談で終わらせていいのか。もっともっと1人1人が本気で向き合うサッカー界にしなくていいのか。
※続きはリンク先で
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa6ac2c6228fc392de85134516f6e29723242d1d
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Source: samuraigoal
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