小野伸二「海外へは行くことが成功じゃない!」
2021年5月26日18歳で98年フランスワールドカップ(W杯)に出場した小野伸二(札幌)。世界中から注目された若きタレントが初めて海外移籍に踏み切ったのが2001年だった。
当時オランダ3強の一角・フェイエノールトへ赴き、移籍1年目にはUEFAカップ(現UEFA欧州リーグ)を制覇。クラブレベルで欧州タイトル獲得時の主力選手となった日本人は後にも先にも彼だけだ。
小野は「ホームスタジアムでボルシア・ドルトムント(ドイツ)と決勝を戦えるなんて幸せなことはない」と偉業達成の瞬間を回想する。
彼が欧州で存在価値を示さなければ、その後に訪れた日本人選手の大量移籍時代もなかった。
この20年間で日本サッカーの立ち位置や環境はどう変わったのか。先駆者が思いを激白する。
中田英寿に刺激を受けて海外に挑戦
93年のJリーグ開幕後、最初に欧州移籍に踏み切ったのがカズ(三浦知良=横浜FC)だった。94年に当時世界最高峰と言われたイタリア・セリエAの古豪・ジェノアへ。日本のエースの挑戦はケガも災いして1年限りで終止符が打たれたが、日本人選手が本場でプレーする道を開いたのは間違いない。
その流れを確実にしたのが、98年フランスW杯直後にペルージャへ赴いた中田英寿だ。新天地デビューとなったユベントス戦での2発は伝説となり、ローマ移籍後の00-01シーズンのスクデット獲得には日本中が歓喜した。
小野は彼らの後を追うことになったのだ。
――海外への意識が最も高まったのは99年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝ですか?
「ヒデさんがペルージャで活躍したのがいい刺激になりましたね。僕らの世代は若い時から外国人選手と戦ってきたんで、自信は持ってましたけど、日本代表になるともっと上のレベルの人がたくさんいる。怖さも多少感じるところがあったので、『これは海外に行って慣れるしかない』とも考えていました」
――フェイエノールト移籍の経緯は?
「清水商業(現清水桜が丘)高校の時に一度、アヤックスから練習参加の打診がありました。当時は事情がよく分からず行きませんでしたけど、2000年の年末にフェイエノールトから練習参加の話が来た。99年7月に負ったヒザの大ケガから復帰していた時だったんで『そろそろ行ってもいいかな』という感じでした。でもウインターブレイク期間の練習で周りもならし状態だったんで、グッとくるものはなかったんですが、加入後にレベルの高さを痛感しましたね」
――チームや現地の環境にどう適応したんですか?
「新たな環境に溶け込もうと思うならピッチ外が大事。ピッチ上の言葉なんて僕からすると必要ない。どの国に行っても、人やプレー、性格を見れば何をやりたいかは把握できるんで、それ以外のことで努力しましたね。例えば、仲のいい選手とご飯を食べに行ったりしましたけど、そういう場だと人間性や性格がよく分かる。僕はそうしました」
全力を尽くしたUEFAカップ制覇の記憶
――ベルト・ファンマルバイク監督も「日本最高の選手はシンジだ」と断言するほど、強い信頼を寄せてくれました。
「そんなに多くを語る人じゃなかったけど、自分の意図を練習の中で理解できてるかはよく見ていたと思います。それに少しずつ出場時間を延ばしてくれたのがよかった。特に大きかったのは、移籍3~4試合目でアヤックスとの試合に45分間出してもらったこと。オランダダービー的な試合のレベルを体感し、やれると感じたことで弾みがつきました」
――その1年目の集大成が、2002年5月のUEFAカップ制覇でした。
「オランダにとってドイツはライバル。日本にとっての韓国のような存在です。その相手と本拠地・ロッテルダムで戦うというのは特別な試合。当時の僕はその試合の大きさをよく分かってなかったけど、プライドのぶつかり合いですごい雰囲気でしたね」
――2-2で迎えた後半5分、エースFWトマソン(現マルメ監督)の決勝弾をアシストしたのが小野選手でした。あの芸術的なパスは多くの人々の脳裏に焼き付いています。
「そのアシストよりも、意識していたのはマークについていたロシツキー(元チェコ代表)のこと。『同世代(実際には1つ下)には絶対に負けられない』って気持ちが強かった。試合自体は特別な緊張感もなく、優勝するために全力を尽くした。ただそれだけです」
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/byline/motokawaetsuko/20210526-00239506/
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Source: SAMURAI Footballers
小野伸二「海外へは行くことが成功じゃない!」