史上初!2年連続得点王!元日本代表FW前田遼一39歳が語るサッカー人生!
2021年3月6日前田遼一は軽やかな表情で迎え入れてくれた。約束の時間より30分も前なのに、すでに彼は到着していた。現役時代の取材といえば、練習後に身体のケアを済ませてから行われるのが通例だったから、待機の時間がいつも長かった。「写真撮りますよね?」と言いながら、前田が持参したいくつかの私服から、着るものを選ぶ姿も新鮮だった。取材嫌い、取材陣泣かせ……そんなかつての形容詞は、もう彼からは感じられない。そして、実際そうだった。
彼の発言からは現役時代には「言えなかった」想いがあったのだろうと理解できた。口外することを良しとしなかったのかもしれないし、選手時代には気づけなかった感情もあるだろう。プロアスリートとしての矜持から解き放たれたかのように、寡黙で無口だったはずの前田は饒舌だった
新しいオファーも「身体的にも気持ち的にもキツイんで」
――現役引退は、いつ頃から考えていたんですか?
「決断をしたのは、今年に入ってからです。FC東京との契約が切れた時(2018年末)にも、チラッと頭に浮かんだことはあったんですが、FC岐阜からオファーをいただけたのでもう1回チャレンジしようと思ったんです」
――昨年末にFC岐阜との契約が満了した際にも、いくつかのオファーを受けたと聞きました。皆さんきっと「遼一はまだサッカーをやりたいんだろう」と思ったんじゃないでしょうか?
「だからか『結構、身体的にも気持ち的にもキツイんで』とお伝えすると驚かれる人が多かったですね。『遼一がそう言うんだったら、相当だったんだな……』って。僕ってどんなふうに見られているんだろうって気になりましたけど(笑)」
――「ボールさえ蹴られたら、どこでもやります」みたいな感じですかね。引退だって撤回するんじゃないかとさえ、思ったりします。
「僕も『やっぱりもっとやりたい』という気持ちになるのかなって思ったりもしたんですけど、意外とそうはならなかった。ただキャンプが始まったとかいうニュースを目にすると、寂しい気持ちは出てきますけどね(笑)。岐阜に移籍した1年目から、『今年が最後になってもおかしくない』という気持ちでやってきたので、ある程度の覚悟ができていたんじゃないかと思います」
「また1年頑張れるか?」と自問自答して
――先ほどおっしゃっていた「心身ともにキツイ」というのは、ケガが続いたりしたからですか?
「というよりも、勝利に貢献できないことですかね。自分なりに努力して、練習をやっても貢献できないというのは、いいプレーをしていないということじゃないですか? 練習は良くても試合ではダメっていうのは、結構キツかったですね。『こんなんじゃ、練習はいいのに試合で結果を出せない若手選手と同じ。僕のプレーに説得力がないだろう』って。自分なりに練習するのも大事ですけど、プロとして大事なのは試合で結果を出せるかだと思う」
――やはり試合で仕事をしてこそのプロアスリートということですね。
「試合で活躍するという作業ができなくなっていたと思います。そんな自分に対して悔しかった。練習を重ねて、試合でいいプレーをして、活躍できれば、また練習も楽しくなるし、キツイことでも頑張れるし、全然苦にならない。でも、岐阜へ行ってからはそんな風に思える時間が本当に短くて、期待や求められているものにも応えられなかった。そこで、また1年頑張れるか? と思ったら、やろうというふうには考えられなかったんです」
https://news.yahoo.co.jp/articles/362be351effc574f4dd6990382d94c209598dc75
3/6(土) 6:01配信
「そうですね。じゃないとプロとしての評価は得られないから。サッカーは楽しいけれど、結局は生活していかなくちゃいけない。それがプロであり、仕事に対してあるべき姿勢だと思うんです」
「これじゃあ、ダメでしょうって思っちゃったんですよね」
――岐阜では得点もごくわずかしかあげられていませんでした。ご自身で理由をどんなふうに考えますか?
「自分の仕事は何? と考えたとき、FWだったら『点を取る』というシンプルな目標に向けて、自分のできることを逆算しながらプレーしてきました。でも、岐阜での去年と一昨年は、チームのために、これもあれもやらなくちゃいけないみたいな感覚になってしまっていたところがあったかなと」
――自身に対する焦燥感と成績が芳しくないチームに何かをという気持ちもあったのかもしれません。
「でも、実際体力は落ちてきているじゃないですか? だから昔のようにはできない部分もある。本当なら、そういうことも考慮したうえで、今の僕に何ができるかをしっかり考えて、整理してプレーすべきだった。でも、当時はただただ必死で、クビにはなりたくないし、試合には1試合でも多く出たかったし……。今もその理由はうまく説明できないけれど、結局結果は残せなかった。これじゃあ、ダメでしょうって思っちゃったんですよね」
――まさに引退を考えている時期(2020年12月)、同じ歳の松井大輔選手はベトナムへ移籍し、佐藤寿人さんが現役を引退しました。
「カンボジアのチームからもオファーはいただいていて、大輔の移籍でまさに『面白そう』って気持ちが動いたこともありました。でもその後に話が進展しなかったんですよね(笑)。ハネ(羽田憲司。現セレッソ大阪コーチ)の『やれるところまでとことんやり切れ』っていう言葉もかなり響きました。実際僕も(試合に出られないで移籍や引退を考える)若い選手に相談されるといつもそう言っていましたから。だからこそ、とことん考えて、最後は自分で引退を決めました」
18歳で黄金期の「ジュビロ磐田」へ
――前田さんと言えば、ジュビロ磐田時代を想像する人も多いと思います。前田さんが高卒で加入した当時は黄金時代と呼ばれ、メンバーは中山ゴン、高原直泰、藤田俊哉、名波浩をはじめ、日本代表クラスの選手ばかりでした。
「そうですね。すごいチームに入りましたね(笑)。でも『ここなら絶対うまくなれる』と信じていたし、『ここでサッカーをしていれば、先輩みたいになれる』と思っていた。みんなの練習での熱量は非常に高くて、厳しさもあるけれど、本当に楽しそうにプレーしていた。だから、僕も楽しかったし、つらいとか大変だと思ったこともありません。
僕もその中で、毎日一生懸命に練習していたけれど、それだけじゃダメだったんですよね。もっと貪欲さが必要だったんじゃないのか、もっといろんなことを感じ取るべきだったんじゃないかと、あとから思うようになりました」
「膝を怪我したのも、罰だったのかなって」
――ただ、前田さんもプロ2年目の20歳でフィリップ・トルシエ率いるA代表の候補合宿に初選出(2001年10月)されます。候補に入ったときのことは覚えていますか?
「前の年も2点取っていただけで全然試合に出てなかったのに『なんで俺なの? 』という疑問しかなかったです(笑)。それでも、合宿へ行けばジュビロの選手ばかりで、居心地もよくて、危機感を抱くとかそういうこともなかった。本当ならそこで、何か感じ取っていくべきだったのかもしれないのに。
もちろん、ジュビロへ戻ればいつも通りスタメンにはなれない。当たり前のことなんですけど、当時は『何で出れないんだよ』と、練習で不貞腐れるようなこともありました。今振り返ると、膝を怪我したのもこの時に抱いた感情の罰なのかなって思うんですよね(笑)」
――2002年6月のヤマザキナビスコカップ仙台戦での負傷(右膝外側半月板縦断裂)のことですね。
「怪我から復帰しても身体が思うように動かなくて、ドリブルでさえイメージ通りにできなくなってしまって。その時に初めて『あ、本当にクビになる』と強い危機感が生まれました。もう、どこのポジションだろうが試合に出たいと思うようになって、起用されたのがFWだったんです」
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Source: SAMURAI Footballers
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