
無名で来日→まさかのブレイク。 Jリーグから大出世した助っ人たち
2020年10月24日とはいえ一方で、来日時には無名であっても、Jリーグで下積み生活を送り、のちに世界に羽ばたいていった選手も存在する。今回はその中から、Jリーグで研磨を積み、母国の代表にまで上り詰めた選手たちを紹介していこう。
その筆頭は、リーグ黎明期にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)に在籍したアモローゾだろう。
1992年7月にブラジルのグアラニからの期限付き移籍で加入した19歳のストライカーは、サテライトリーグで結果を出しながらも、当時最強を誇ったV川崎の分厚い選手層に阻まれた。外国籍選手枠の影響も受け、ついにJリーグの舞台に立つことがないまま、帰国の途についている。
その意味ではJリーグの経験がのちの成長を促したとは言い難いが、日本一のタレント軍団のなかに身を置いた日常が、伸び盛りのティーンエイジャーのポテンシャルを開花させたことは想像に難くない。
グアラニに復帰した1994年、アモローゾはブラジル全国選手権で得点王となると、ついには欧州移籍を実現。イタリアではウディネーゼで、ドイツではドルトムントでそれぞれ得点王に輝いている。
け警告を受けることも多く、試合後に「Jリーグ、ムリ」とカメラに向かって不満を爆発させることもあった。
その振る舞いから悪童のイメージがついたものの、フッキが欧州に渡ったあとに東京Vは大きく低迷し、1年でJ2に降格したことからも、その影響力は絶大だった。
Jリーグの枠に収まり切らなかった男は欧州でもその力を見せつけ、2009年にブラジル代表に選出。母国で開かれた2014年のワールドカップにも出場している。
このふたりとも劣らないシンデレラストーリーを歩んだのは、京都パープルサンガでプレーしたパク・チソンだろう。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20201024-00909310-sportiva-socc
10/24(土) 6:50
翌2002年はウイングにポジションを移し、松井大輔、黒部光昭と強力な3トップを形成。同年の天皇杯優勝を置き土産に、オランダのPSVへと旅立った。
PSVを経て加入したマンチェスター・ユナイテッドでの活躍は、周知のとおり。献身性と汎用性を武器に7シーズンに渡って主力としてプレーし、大事な試合で結果を出す勝負強さも光った。
2000年から2011年まで名を連ねた韓国代表キャップ数は100。アジアサッカーの歴史にその名を刻む偉大なプレーヤーの原点もまた、Jリーグにあったのだ。
コートジボワール代表に上り詰めたドゥンビアも、Jリーグからのし上がったワールドクラスのひとりだ。
2006年、19歳の時に来日し、柏レイソルでプレー。切れのあるドリブルを駆使してガムシャラにゴールに向かうアタッカーは、一方でプレーに波があり、在籍2シーズンで主軸とはなりえなかった。
しかし、2008年に徳島ヴォルティスにレンタル移籍すると、16試合で7得点とゴールを量産。そして同年には日本で行なわれたキリンカップでコートジボワール代表デビューを果たしている。
6月にはスイスのヤングボーイズに移籍したことで、日本では大きなインパクトを放ったわけではない。だが、本田圭佑と同僚となったCSKAモスクワでは2度の得点王に輝き、のちにイタリアやイングランドでもプレー。2010年のワールドカップにも出場するなど、輝かしいキャリアを歩んでいる。
ここで紹介した4人が、Jリーグ経由で世界に羽ばたいた”出世頭”だろう。変わり種では、浦和レッズでブレイクし、のちに国籍を取得したカタールで代表となったエメルソンもいる。だが、当時のルールでは資格がないとことが明らかとなり、代表での実績よりも、その騒動のほうが話題となった。
“出世頭”の4人に共通するのは、若くして来日したこと。そして、試合経験にかかわらず、そのポテンシャルを刺激する文化や土壌がJリーグにはあったのだろう。
現在のJリーグにも、浦和のレオナルドをはじめ、二十歳前後で日本にやって来た選手は数多く在籍する。Jリーグで揉まれた彼らが今後、ワールドクラスになる可能性も十分にあるはずだ。今のうちにその雄姿を焼きつけておくことをオススメする。
日本では出場機会あまりなかったが、セリエAで成功したブラジル人。
名前忘れた
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Source: SAMURAI Footballers
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